7月だというのに高い気温が続きます。
8月はどうなってしまうのかという気象の中、お変わりなくお過ごしでしょうか。
メディアの報道には相変わらず明るいものが少ないです。
こうなると、外部のなにを信じてよいのかわからなくなります。
こんな時代にこそ、家族や隣人、仲間との信頼関係や絆を深めることが
いちばんなのかもしれません。
とはいえ、自分の外にすべてをゆだねるのもどうでしょう。
「人を変えることはできない。変えられるのは自分だけ。」とはよく言われます。
こんな時代にこそ、自分を信じ、いまという瞬間は二度とこないのだと認識し、
瞬間を最高に生きることが、こんな時代を乗り越える心のソリューションではないでしょうか。
具体的にどうしたらよいかのヒントは
書店に行くとさまざまなノウハウ本が陳列されていますが、
それよりも、古典に問うてみることをお勧めします。
『~の名言』『~の格言』といった書籍が多数出ています。
古典は、意味があって古典です。
長い時代の風雪に耐え抜いた強さが古典にはあります。急がば回れ、です。
少し難しそうでも、ぜひ、自らの心のソリューションを手にするために、
古典を読まれることをお勧めします。
西洋なら作家のゲーテやシェイクスピア、哲学者のアランやショーペンハウエル、
東洋なら勝海舟や西郷隆盛といった幕末の偉人たちに価値のある名言が多いです。
いろいろと調べながら、ご自分の好みの書籍をぜひ探ってみてください。
●今月のブログ
小さな創造と集合知。これらが動き出し、イノベーションのタネを生む
https://tech-dialoge.hatenablog.com/entry/2023/06/24/193106
●今月の雑感:デジタルと文脈の解体、人間の価値について
書籍制作とはおもしろいもので、
成果物に制作者のメンタリティが如実に現れる。
Mustで作った本に収益を生む可能性はあっても、ベストセラーを生むことはまずない。
たいてい、それなりの成果である。
気持ちの良いメンタリティ、さらにはワクワクのメンタリティから作られた本は、
なんらかの形でポジティブな成果を残す。
本とは、文字というインクの染みによる言葉がビジュアルとして束になったに
すぎない存在だが、なぜだか、人の心に訴えかける。
言葉とは言の葉というが、文字は葉となり、本という樹木を形成し、樹木は森を形成する。
そして森は大地を形成し、大地は宇宙を形成する。
ボルヘスの『バベルの図書館』ではないが、
本とは人間が無限の宇宙を造ろうとした、人類の産物である。
本の集合は森であり、森の集合は大地であり、宇宙である。
文字を発明し、宇宙という実体を記述した人間は偉大だ。
本とは一見、出版社の四半期の収益を作り上げる材料や、
書店の商材にも見えるが、実は、本は宇宙の一部である。
宇宙の成果物である人間の心の状態が本に投影されるのは、至極当たり前である。
そう考えながら書店に行くと、本を手に取る心持ちは変わってくる。
そして本作りや販売に携わる制作者、編集者、版元業務、書店員たちにおいても、
その心持ちは変わってくる。
▲人間が宇宙の一部としての自らを記述した自伝
先日、言葉で宇宙を構築する作家の素晴らしい仕事に触れる機会があった。
それは、シュテファン・ツヴァイク(1881~1942年)の自伝、『昨日の世界』との出会いだった。
書名の『昨日の世界』とは、
ウィーン人ツヴァイクの生きた世界(ハプスブルク帝国、オーストリア=ハンガリー帝国)が
すべて「過去のもの」、という隠喩にもなっている。
上巻は作家の少年時代と青年時代。
下巻は作家としての彼の上昇と人生の幕引き。
そして最後のページは、遺書である。
ユダヤ人としてナチスに追われ60歳で亡命先のブラジルで
本作を書き終えた直後自ら命を絶ったツヴァイクであるが、
本作には悲壮感がほとんどない。
彼の悲劇的な人生ラストを知った人が本作の冷静さと明るさに直面すると、
正直、驚くかもしれない。
ツヴァイクは生前、作家としての人気にとどまるところがなかった。
日本でもおなじみの伝記『マリー・アントワネット』『ジョセフ・フーシェ』など、
作品は飛ぶように売れた。
この伝記に悲壮感がほとんどないことの理由は、
彼がやりたいことをやりぬき、大成したところにある。
本人自身もここまでビッグになるとは思っていなかったようだ。
入ってきた印税で文豪の原稿やゲラを収集したことに喜びを表明しており、
とくにバルザックのゲラには、赤字を通して作品の質があがっていく過程の感動が
記述されている。
ラストに遺書が1ページ掲載されているが、
ナチスに追われて悲惨だった、というよりも、私には、
「ここまで十分やり抜きましたから、お先に失礼」という潔さが読み取れた。
ツヴァイクは、まえがきとラストが白眉である。
天国から地獄まで、すべてを見ぬき生き抜いた彼の自信と矜持を
ラストの一文から引用する。
=====
あらゆる影は、窮極において光の子であり、明るいものと暗いもの、
戦争と平和、上昇と没落、その双方を経験した者だけが、
ただそのような人間だけが、真に生きたと言えるのである。
=====
人間という宇宙のパーツが、人間の言葉というパーツで歴史を描き、
歴史の中に生きる人間という宇宙を描いた、素晴らしい作品だった。
数学者は数値で、音楽家は楽譜で、宇宙を記述する。
そして伝記とは、人間が自らを言葉で記述した宇宙だ。
▲作家、編集者、制作者が作り上げた、本とはなにか?
作家、編集者、制作者が作り上げた、本とは、そもそもなんだろうか?
人間という自然の営みが生み出した成果物。
それが、本である。
そして本には、実体があり、文脈がある。
ボディのある、実体と文脈のある情報の塊が、本である。
デジタルとAIの時代、本などの実体に刷られた文字と文脈はデジタルデータに変換され、
デジタルデータはコンピュータへと渡され、AI(などのソフトウェア)に処理される。
つまり、デジタル化された文字と文脈は、人間が読むと同時に、AIが読む。
文字は本など実体から離れ、AIが読むためのデータという、実体のないものに変換される。
同時に、文脈も解体される。
情報という意味では、
アナログ上の文字とデジタル上の文字は、ほぼ同じものである。
しかし双方に大きな違いがある。
それは、実体があるか否かである。
アナログ上の文字はデジタル化された瞬間から、実体を失い、拡散する。
同時に、文脈を失う。
たとえば、Web検索で出てきた文字の持つ意味は、
どこから出てきたものなのだろうか。
それは辞書か、小説か、権者のブログか、個人のブログか。
そのブログはどんなブログなのか、どんなフォロワーなのかなど、
出所の属性により、その言葉の意味はまったく異なる。
文脈を失った文字は、アナログ上にあった本来の意味を失う。
▲文脈をつくる意志に人間の価値がある
MP3音源のアンチテーゼとして、
CDの登場とともに90年代に消滅しかかった、アナログレコードが復活している。
単体の楽曲ごとにシャッフルされ再生されるMP3音源と
楽曲がバインドされ文脈が作られるレコードとでは、
耳に聞こえる音は同じであっても、そもそもの「意味」が異なる。
そしてレコードには、アルバム本来としての作品性を含んでいる。
ジャケットのアートワークやライナーノートなどレコードの付属品全体が、
音楽という全文脈を構成している。
デジタルは、こうした全体としての文脈を破壊し、再構築し、商品として最適化する。
しかし、商品として再構築され、最適化されたアウトプットは、
必ずしも受け手にとって最良のものではない。
作者にとっても同様である。
つまり、作品は、デジタル化され文脈が解体された時点で、
人間という宇宙の産物からのアウトプットではなくなってしまう。
この時点から、商業のためのプロダクト(商品)へと変換される。
アナログの強みは、実体があるから、だけではない。
そこには、確固たる文脈があるからだ。
人間ならではの実体への欲求とは、
言い換えれば、人間などの宇宙が作り上げた、それならではの文脈への欲求である。
宇宙は実体と文脈でできている。
文脈を解体すると、情報や意識といった、実体のないものへと拡散していく。
しかし私たちは、つねに、文脈に触れることで、
自分という実体と文脈を感じ、意識し、生きることができる。
ゆえに人間には、つねに実体と文脈が必要である。
AI化のいま、実体とデジタルのはざまに、文脈と人間が存在する。
人間は、宇宙と自然の一部を構成する、アナログの存在だ。
生きるとは、人間としての文脈をつくる意志である。
文脈をつくる意志とはなにか。
それは、自分の人生を自分で生きることである。
AIにはまず描くことができない、自分だけの人生という文脈をつくり、
「真に生きる」ということだ。